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■源平合戦 屋島史跡巡りウォーク

今からさかのぼること800年余りの昔、まだ幼い安徳天皇を奉り、都より西海に落ち延びてきた平家とそれを討つべく追撃してきた源義経ひきいる源氏の軍勢がこの地で天下の雌雄を分ける戦いをくりひろげた。かの有名な那須与一「扇の的」や義経の武勇伝、また合戦にまつわる数多くのエピソードや史跡がリアリティーのある伝説として伝えられています。

屋島源平ロマンを味わう

距離/約9.5km  所要時間/約 2時間30分

屋島駅 → 義経鞍掛松 → 菜切地蔵 → 長刀泉 → 佐藤継信・ 大夫黒の墓 →

総門跡 → 射落畠 → 義経の弓流しの跡 → 洲崎寺 → 駒立岩 → 祈り岩

→ 景清錣引伝説 → 菊王丸の墓 → 安徳天皇社 → 佐藤継信の碑 → 

赤牛崎 → 屋島駅

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《見どころガイド》

義経鞍掛 松(よしつねくらかけまつ)

屋島を望むこの地で人馬を整え、平家の陣を攻めたと伝えられています。その時、義経がこの松に鞍を掛け休息したといわれています。

菜切地蔵(なきりじぞう)

合戦の合間に弁慶が汁を振舞おうと野菜を切るマナイタがわりにしたというお地蔵さん。お地蔵さんには今なお包丁の傷が残っているといわれています。
   

長刀泉(なぎなたいずみ)

源氏の兵が炊事をする際、このあたりは海が近く水がよくありませんでした。そこで弁慶が長刀で井戸を掘り、きれいな水が湧いたとされる古井戸です。 

       

佐藤継信・大夫黒の墓
(さとうつぎのぶのはか・たいふくろのはか)

能登守教経の強弓によって義経の身代わり討死した佐藤継信の墓。義経が後白河法皇から賜わった秘蔵の名馬で、死後継信の傍に埋葬されたといわれています。
   

総門跡(そうもんあと)

安徳天皇が六万寺を行在所としていた頃、海辺の防御に備えて門を構え平家の前哨としていた場所。現在残されている衡門は合戦跡を後世に残さんと初代高松藩主・松平頼重公の手によって建立されました。

射落畠(いおちばた)

源義経の四天王の一人佐藤継信が義経の身代わりで亡くなった所。「胸板をすえて忠義の的に立ち」の石碑が建てられています。


 
   

義経の弓流し跡(よしつねゆみながしあと)

平家物語や源平盛衰記などで語り継がれた屋島合戦での有名なエピソード。かって海だったところにひっそりと石碑が立ち、このあたりで弓を流したと今に伝えられています 。

洲崎寺(すざきじ)

源平軍が負傷した兵を運び込んだいう古寺。佐藤継信の亡骸はこの寺の門扉で本陣・瓜生ヶ丘まで運ばれたといわれ、継信の菩提寺となっています。
   

駒立岩(こまだていわ)

那須与一宗高が扇の的を射るとき、荒れる海の中この岩上で駒を止めたといわれる巨岩。河上にあり、潮が引くとその姿をあらわします。
 

祈り岩(いのりいわ)

那須与一宗高が扇の的を射るとき、この岩に向かって一心に祈ったといわれています。土に半分埋もれた岩が「祈り岩」。そばに「いの里岩」と書かれた碑が立っています。
   

景清錣引伝説(かげきよしころびきでんせつ)

このあたりで平家軍団一の豪傑とされる悪七兵衛景清と源氏の美尾屋十郎が一騎打ちしたとされています。

 
 

菊王丸の墓(きくおうまるのはか)

教経の強弓に倒れた佐藤継信の首をとりに行くも継信の弟・忠信に射倒された菊王丸。主君・教経がその死を憐れんでこの地に葬ったといわれています。
 
   

安徳天皇社(あんとくてんのうしゃ)

一ノ谷の大敗をを喫し屋島に逃げた平宗盛が軍司に命じて造営した幼帝・安徳天皇の行宮跡。行宮とは仮の皇居とした場所で、安徳天皇の死後この地を霊所として、祀っています。
 

佐藤継信の碑(さとうつぎのぶのひ)

源平合戦の際、義経の身代わりとして忠死したことは武士道の鑑であると広く世に知らせるために初代高松藩主・松平頼重公が墓所を屋島寺遍路道沿いに碑を新しく建立。墓地公園としました。
   

赤牛崎(あかばざき)

安徳帝の内裏を攻め込もうとした源氏軍は、数十頭の赤牛を放ち、浅瀬を知り、ここを押し渡って屋島へ上陸しました。「赤牛崎」の名はこれにちなんで名付けられました。

 

   


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